岩手県在住作家によるリレー掲載
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第2回 行きつけの宿(2021年8月6日配信)/柏葉幸子
「柏葉さんの行きつけのお宿でーーー」
同人誌仲間の後輩からの電話で、花巻の宿をとってくれと頼まれたことがある。
私は鬼ヶ島通信という同人誌の一員だ。鬼ヶ島通信はわが師の、勝手に師とあおいでいるのだが、佐藤さとる先生を中心に始めた児童書専門の同人誌だ。同人誌とはいえ、ちょっと毛色は変わっていて、読者がいてくださって購入していただくかたちをとっている。
ずーっと昔、私は一番若い同人だった。そして今は一番年上の同人となった。同人仲間はほとんど代替わりをした。書き手と編集者たちが同人なので、編集者たちが定年を迎えたということだ。幸いなことに書き手に定年はない。幸いなことだと思うことにしている。
童話にかかわる者はみな、岩手の花巻・遠野にあこがれる。賢治さんの生まれた花巻。花巻の人たちは、なまって『けんつぁん』と呼ぶ。遠野物語の舞台の遠野。みな、行ってみたい!また行きたい!となる。同人の一代目も昔、さとる先生と花巻に来た。そして、代替わりをした二代目たちも花巻・遠野に行きたい!となった。
それで、行きつけのお宿となる。花巻が実家の私が花巻で宿に泊まるということは温泉に行く場合だけだ。だからもちろん温泉に行きつけの宿はある。だがーーー。
「自炊部だけどいい?」
こわごわ聞いてみる。案の定、
「どういうことですか?」
の返事。
「旅籠じゃないわけ」
「はあ。旅籠って何ですか?」
「湯治宿なのよ」
「湯治?」
文字で書くとわかってもらいやすいのだが、電話でとなると至難の業だ。
「BアンドBの、朝ごはんもないやつ」
「ああ」
やっとわかってもらえた。素泊まりといえばよかったのかとも思うが、私にとってニュアンスが微妙に違う。
「でも食堂もあるし、朝ごはんだって食堂で食べたらいいし。ふとんやこたつは貸してくれる。洗面道具とパジャマ替わりに部屋着をもってくればいい」
そこで止めておけばよかった。
「宿の何か所かに台所があって、お金を入れて使うガス台があるのよ。調理器具や食器なんかもおいてある」
おもしろいでしょとばかりに、つけたしてしまった。
総勢十二人で来た同人たちの中に、エプロン持参できた人が二人いた。
たいていが児童書の編集者たちだ。みんな賢治記念館で目をらんらんと輝かせ、くいいるように展示物をみつめ、メモをとり質問をする。大学を出たばかりみたいな若い子が、アイドルタレントなみに熱狂する。私はその熱気にあてられっぱなしだった。
宿は喜んでもらえた。夜は静かで川の音が心地いい。落ち着きますといっていた。もちろん、お湯にも驚いていた。
花巻の南温泉郷の中ほどにある大沢温泉が私の行きつけの温泉で、その中の自炊部がいきつけの宿になる。岩手の人はみな、宿泊するにしろ日帰り入浴にしろ、それぞれ行きつけの温泉があるのだと思う。我が家は代々大沢温泉のトロリとしたお湯のファンだ。ちなみに賢治さんも大沢温泉だったはずだ。宿に賢治さんが子供の頃の写真がかざってある。
自炊部は私が子どもの頃から変わっていないような気がする。玄関は昔からの木とガラスの引き戸。下着から味噌までおいてある売店。夏にはゆでたてのトウモロコシがならぶ。曲がりくねった階段。何棟もある建物を結ぶあちこちにのびる廊下。ここに部屋があるのかと驚く間取り。朝になると牛乳やヨーグルトを売りに来る。そして、いつ行ってもチリ一つない。
私の子どもの頃の悪夢は大沢温泉の自炊部で迷子になる夢だった。廊下をいけども、階段をのぼれども、自分の部屋へたどりつくことができないのだ。
物語を書いていて宿屋をイメージする時、たいてい自炊部になってしまう。廊下で迷子になる子の話。ばったり不思議なものと鉢合わせする話。いつか、こじゃれたリゾートホテルでも出てくるお話を書こう!と意気込むが、気持ちばかりでうまくいかない。
ああ、そろそろ8月の予約をしなければ。我が家の『おほげ』は(お墓参りのこと)、自炊部の予約がとれた日にすることになっている。