子育てのため故郷・三陸へ
人情味あふれる漁師町で開業

大船渡市へ
Uターン

休み処かわ喜

白川里奈さん

(釜石市出身/2023年8月に移住)

釜石市出身。幼少期より家業の製麺工場を手伝う中でデザインに興味を抱く。東京の専門学校でデザインを学び、広告デザイン会社に就職。東京で精力的にキャリアを積む。都会の子育てが困難な環境に疑問を感じ、Uターンを決意。2023年末、越喜来湾を望む高台に「休み処かわ喜」をオープン。(2025年度取材)

越喜来の海に背中を押されて

リアス式の入り組んだ複雑な地形のため、鬼が隠れるのにちょうどよく「鬼が喜んで来た」ことが名前の由来と言われる大船渡市「越喜来(おきらい)」。波が穏やかで、海水の透明度も高い越喜来湾は養殖に適しており、ホタテ、ムール貝、ワカメ、ホヤなどの豊かな幸が育まれています。2023年末、この越喜来湾を望む高台に、ラーメンと蕎麦・うどんのお店「休み処かわ喜」がオープンしました。店内は、リズミカルに並ぶヘリンボーンの床が印象的なカフェのような内観で、越喜来湾が望めるテラス席はペット連れのお客さんにも好評です。新鮮な地元海産物をふんだんに使ったメニューを提供し、越喜来の食と魅力を楽しむ新スポットとして、人気を集めています。

店主の白川里奈さんは釜石市出身。実家は昭和24年から続く、地元で人気の高い製麺所。幼少期は、お父さんは営業で飛び回り多忙だったため、「せめて母のそばにいたくて、よく工場でお手伝いをしていた」とお話しします。工場で商品パッケージやポスターを目にするうちに興味が沸いたデザインの仕事を志し、高校卒業後は親の反対を振り切った半ば強引な形で東京の専門学校へ進学。何が何でもデザインの仕事に就こうとがむしゃらに動き、見事に広告デザイン会社に就職。アナログからデジタルへと新しい時代の幕開けが始まろうとしていた時、その革命の中心地・東京での仕事がとても楽しく、多忙ながらも仕事に生きようと決めていたと振り返ります。

その価値観が揺らいだのが、2011年3月の東日本大震災のときのことでした。「海のそばではなく、山の方にしなさい」という先代の教えを守って新設された実家の工場は無事だったものの、ライフラインの断絶により、家族とはしばらく連絡が取れない状態に陥りました。その間、「親孝行がまだなにもできていないこと」への後悔が、ただただ深まっていったといいます。
家族の在り方を見つめ直した翌年、長男が誕生しましたが、高い保育料と収入のバランス、激務の仕事との両立など、都会での育児の厳しさに白川さんはどんどん疲弊していくことに。定期的に帰省する故郷と東京のギャップを感じ、次第に子育ての舞台を故郷に思い描くようになります。Uターンの決断を決定づけたのは日常のある出来事。長男が近所の公園で友達と遊んでいたときに「子どもの声がうるさいと通報があった」と警察官が来たことでした。東京では子どもが元気に外で遊ぶことも難しいのかと、都会暮らしへの憧れがついに“冷めた”のを感じたといいます。

夏休み中の子どもたちを連れて釜石市に帰省していた2022年8月。海が好きな子どもたちのため、白川さんのお父さんが運転する車で越喜来浪板海水浴場へドライブに行くことに。越喜来湾の美しい海を眺めていた白川さんは、その近くにあった元食堂の売り物件に目を奪われます。
「夫は仕事で東京を離れられないため、自分と子どもたちが暮らすための場所を探していたのですが、その物件を見た時、まったく考えてなかったお店を営む自分の姿を想像しました。海を望むこの場所で暮らし、働いて、子どもたちの帰りを待つ生活を思い描くだけで、心が躍りました。」

越喜来湾で海水浴をする子どもたち

 

漁師町の温かい歓迎

白川さんを勇気づけたのは、移住前に知った「移住支援金」と「起業支援金」という2つの支援制度。大船渡市には、物件購入や転校など移住に関する相談を、そして岩手県中小企業団体中央会には、起業支援金申請のため事業計画書の作成など起業に関する相談を同時に進めることに。
飲食店の立ち上げ方や、市街地から離れた越喜来という場所で安定した収益を上げるための方法など、起業に伴う初めての悩みについては、釜石で商売をしてきたお父さんと、東京から移住後に起業をした先輩移住者の方が、親身に相談に乗ってくれました。
一次の書類審査、二次の面接試験を経て、無事に起業支援金の交付が決定。事業計画書に書いた「この漁師町で、人口減少により失われつつある“三陸の食”を楽しむ場所になりたい。」という願いは、地元の漁師さんたちが力強く後押ししてくれました。
「開店準備をしている段階から、地元の漁師さんたちが『麵屋さんができるんでしょ?』と噂を聞きつけて、具材になりそうな海産物を持ってきてくれました。時には釣り船に載せてもらって船上で新鮮な魚の捌き方を教えていただいたり、地域の人に受け入れてもらいやすそうな味付けもアドバイスしてもらったりしました。私たち家族に対する地域のみなさんの歓迎ぶりや、人柄の温かさは、移住して驚いたことの一つです。」

移住して1年半程が経った2025年2月、大船渡市で大規模な山林火災が発生。越喜来地区から南西に位置する赤崎町合足地区や三陸町綾里で火の手があがり、火災発生から鎮圧まで非常事態は2週間ほど続きました。ギリギリのところで避難区域外となった越喜来で、白川さんは可能な限りお店の通常営業を継続。まだまだ寒い時期に、温かい麺類を提供し続けました。「とても不安な中、お店に来てくれるみなさんと言葉を交わすことで安心できました。移住して間もないのに、こんなに地域の人に支えられているのだということを実感した」と、当時の心境をお話しします。

移住するまでは、「上京したからには、東京で成功しなければならない」「遠くの家族に頼ってはいけない」という思い込みがあったという白川さん。しかし、子どもたちを連れてUターンし、家族にもお店を手伝ってもらうことで、人生の選択肢はいくつもあるのだと、東京にいた時よりもずっと楽に物事を考えられるようになったそうです。
「帰って来られる家のありがたみを、いまはとても噛みしめています。子どもたちがどこに巣立っても、帰ってこられる家として、この場所にいたいですし、お店を頑張ることで、地域が賑わい、子どもたちの故郷を守る助けになれると嬉しいです。」
いくつもある選択肢の中で、この越喜来での暮らしを選んだ白川さん。鬼だけでなく、人が喜んでくる故郷へと、腕を振るいます。

お店の外観

 

越喜来湾でイカ釣り

 

Q&A

利用した移住支援制度はありますか?

地域課題の解決を目的に起業する人に支給される岩手県中小企業団体中央会の「起業支援金」を受給しました。あと、この起業支援金交付決定を受けた移住者に支給される「移住支援金」を大船渡市から受給しました。店舗改装工事や調理設備等の設備費にだいぶかかりましたし、越喜来地区に住むなら自家用車は必須でしたので、その購入資金に充てました。

久しぶりにUターンをして感じることは?

三陸沿岸道路や釜石自動車道が開通して交通網が充実しましたし、新しくて立派な公共施設も増えて、子どもの頃に感じていた田舎の不便さをというのを今は感じなくなりました。
子どもたちが通う小学校は震災後にできた新しい校舎で、全面ガラス張りの壁から陽光が入って明るく広々として、木造の温かさと洗練された美しさがある素敵な建物です。娘もとても気に入っています。

子育てや教育の環境はどうですか?

子どもたちが通う小学校の児童数は70人ほどと、東京の小学校に比べて規模は10分の1になりました。先生方はお店に食事に来てくれたりして、子どもたちだけでなく、保護者も気にかけてくれるような温かさを感じます。
走ることが大好きな息子のことも、先生方がたくさん褒めて、その力を伸ばしてくれました。東京の大きな学校では、個の優劣よりも皆の平等性に重きを置くイメージでしたので、長所を見つけてくれたことが嬉しかったですね。息子は今、陸上をがんばっています。

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